写真的収奪



 「資本主義的な写真」を考える時、写真はどうやら資本主義の先端と歩みを共にして来たようだ。なにせ既に「ポスト産業資本主義」の段階に達しているのだから。次があるとすれば、「ポストポスト産業資本主義」だ。
 が、そもそも作家活動が「商行為」たりていないという現状がある。「写真集に於ける「共同出版」の慣行、ギャラリーに於けるよくわかんない収支、決して「美術の中央銀行」としての役割を果たさない美術館等々。そこから来る、「売る-買う」の不平等な二項に於いて、「買う」側はいつまでもどこまでも「売る」立場に立てないという構図。売る物ががないままに買うことばかりを要請される行為が、「資本主義」の訳はない。「消費につぐ消費こそがポスト・モダンで、ポスト・ヒストリーだ」と強弁したところで、ボードリヤール以外は誰も納得しないだろう。なにせ、一方にはっきり「売る人」がいるのだから。近代が終わろうが、歴史が終わろうが、あやしげな資本主義は継続していることの証左だ。「共同出版」という名の下に印刷・製本代行をする業者、壁を白く塗った賃貸不動産物件を又貸する業者、それらの業者に「作家」という腰の低い消費者を斡旋する人々と、彼ら/彼女らから買わされ続ける人々・・・・。まあ、「収奪」だよね、これ。

「写真的収奪」。
それら「収奪」を逃れるためには?
「スタジオ(=工場)に勤める事」、そして「いつの日にかカメラマン(=自営業者)として独立するという夢」。
なに、これってまんま「南米インディオ→チョロ」の悪循環そのままじゃないの??? 行政絡みで土地を収奪され、いやなら工場に勤めろ、と言われ、「今は安時給の臨時雇用だけど、そのうち開業資金を貯めて独立した自営業者になるんだ!」と夢を抱く新興都市労働者たち。チョロたちが陥っている悪循環って、そのまま「資本論」の実証部分でマルクスが書いてる19世紀イギリスのプロレタリアートの歩みそのものだ。
21世紀になおも継続するニッポンの下層社会。

「労働価値説」云々を置くにせよ、ほんとに「資本主義」から「収奪」「搾取」が消えることってあんのかな? すなわち「売る人-買う人」の地位が反転することって。「現状」を分析するまでもなく思い浮かべる時、岩井理論に対して疑問符が点灯しはじめている。

よって、ウォーラーステインを読んでみようと思っている。