で?


☆竹橋「国立近代美術館」へ行って来た。
「写真の現在3:臨界をめぐる6つの試論」
向後くんと伊奈さんの写真を観に。
特に感想なし。
別に酷評する程のこともないし、別にどうこうとも思わなかった。瞳を通り過ぎた。ひっかかりがなかった。「良い趣味の壁だよね」という感想? well-madeな写真って、何も残らないのかも。壁紙みたいなもんだから、それについてどうこう言うべきじゃないんだと思う。
「まあ! ご趣味のよろしい! こちらのビルの写真なんか素敵ですこと! この大きさ! 素晴らしいわ!」と老貴婦人的にご追従を述べておけば、それで足りるような気がした。まあ、元来、美術ってそのためのもんなのかもしれない。
展示のタイトルもまた、ある種の「まあ! 素敵!」を誘発しようと付けられたものなのだろうか? 「試論」にしろ「論」には無縁な人々に見えたし、「臨界」もなかったし。語呂として、これまた「素敵!」という老貴婦人からの賛辞=ご追従を狙ったんだろうと思うしかない。吉本隆明の初期の詩編とかのタイトルに近い語感? 「転位のための十篇」とか「マチウ書試論」とか。
「会場が狭い」とかって聞いていたけど、適度の広さだった。
「ええ! もう、とっても素晴らしい展示でしたわ! なんとも言えないくらい素敵!」


☆写真展やってる向かいの部屋に入ったら、李兎煥と岡崎乾二郎が目に飛び込んで来た。
へー、いいなあ、と思った。ほんとに壁掛けに徹してる絵だから。色合いが綺麗だし・・・・・・そんだけ。
 工芸品として量産できそうだけど、複製量産はできそうにないあたりが、ミソなのかも。ただ綺麗なだけの壁掛けだけど、この世にひとつっきりしかない模様の壁掛け。
 岡崎乾二郎は、近寄ると「火」とか「火傷」とか「高温のこて」とかを思わせる長々としたタイトルがついてた。
 一階企画展の近代的汚らしさと比べると、色彩が澄んでいて綺麗で、形式的な構成しかないから情念のどろどろから解放されて気分がいい。けど、「で?」とつづけたくなる。

☆実は、「写真の現在3:臨界をめぐる6つの試論」の感想ともつながるのかもしれない。
 「現代写真」なのか「90年代の美術写真」なのかわからないけど、その時代の写真は、写真にまつわるいろんなことを「これはなし」「これもなし」と消して来たのだろう。
 写真から、「誰を撮ったのですか?」を消し、「何を撮ったのですか?」を消し、「いつ撮ったのですか?」を消し、「どこで撮ったのですか?」を消し、「何の写真なんですか?」を消した。それらを消すと同時に、キャプションとして付くべき「説明文」をごくごく曖昧なものへと換えていった。結果、色彩として心地よい模様だけが残った。ふむ。
 「で?」。

☆「現代」がつくと、即「難解!」とつづいたのは、いつ頃の風潮だったのだろう? どうやら21世紀から振り返ってみるなら、近年の「現代」がつくものは、「簡単すぎる」ってことに尽きるようだ。「綺麗なだけ」「なんにもなし」「ただの模様」が主題として入って来ているのだから、3秒で理解できる。説明はいらない。レッシングの言う「バンパーステッカー文化」に見事に組み込まれている。近年の「現代・・」に伴う大きさ(やたらとでかい!)もこの辺と結びついているのかも。
Billboadになる夢を見る現代たち。 「で?」以後が欠損している。


☆「現代××は、難解である」の時代の代表格が、吉本隆明かもしれない。難解な現代詩であり、難解な現代思想。その実、用語法が恣意的で、「てにをは」が間違っているだけだ。そんなもん、読めるわきゃない。すなわち、「難解」なのではなく、「読解不能」だったというのが実態だろう。


☆「はてな」のアクセス数がやたらと増えた。「岡くんがとりあげてくれたからかな?」と思ったけど、それ以後もやたらと多い。「なんで? ビッグ・ママ・ソーントンが受けてんの?」と思って、アクセス解析をみてみたら、「やけのはら」っていうDJの人がブログで、取り上げくれてたみたい。
へー!! 多分、そんなにメジャーなミュージシャンではないのだと思うけど、音楽系だと訪問者数がだんちなんだ。20世紀後半のメイン文化は、音楽なんだよなあ、と。
いいなあ。
 高校生の頃好きだった漫画家:根本敬のコメントと並んでるところが嬉しい。