引き受けてくれる神を持たぬ余は遂に之を泥溝の中に棄てた


 トリストラム、シャンデーと云ふ書物のなかに、此書物ほど神の御覺召に叶ふた書き方はないとある。最初の一句はともかくも自力で綴る。あとは只管に神を念じて、筆の動くに任せる。何をかくか自分には無論見當がつかぬ。かく者は自己であるが、かく事は神の事である。從つて責任は著者にはないそうだ。(・・・・・)スターンは自分の責任を免れると同時にこれを在天の神に嫁した。引き受けてくれる神を持たぬ余は遂に之を泥溝の中に棄てた。

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「西洋の本ですか、六づかしい事が書いてあるでせうね」
「なあに」
「じゃ何が書いてあるんです」
「そうですね。實はわたしにも、よく分らないんです」
「ホヽヽヽ。それで御勉強なの」
「勉強ぢありません。只机の上へ、かう開けて、開いた所をいヽ加減に讀んでるんです」
「夫で面白いんですか」
「夫が面白いんです」
「何故?」
「何故つて、小説なんか、さうして讀む方が面白いです」
「餘つ程變つて入らつしやるのね」
「えヽ、些と變つてます」
「初から読んぢや、どうして悪るいでせう」
「初から読まなけりやならないとすると、仕舞迄読まなけりやならない訳になりませう」
「妙な理窟だ事。仕舞迄読んだつていヽぢやありませんか」
「無論わるくは、ありませんよ。筋を讀む氣なら、わたしだって、そうします」

夏目漱石草枕」1906)




僕より99歳年上の日本人が100年前の夏に書いた文章。