だから関西は・・・/大竹伸朗が格好悪い


☆きらいでいやですすんで出た街のわけだけど、他郷の人にどうこう言われるとやはり腹が立つ。なぜか。「名古屋はいや」という時の名古屋という集合の中に自分も含まれるからだろう。
 「湘南のひとって気楽に名古屋について悪口をいうよね。結局、湘南って石原慎太郎の地元だからさあ、地域的な差別に走り易いんだよ」「京都、大阪の人って名古屋は中途半端とかよくいうよね。やっぱり部落差別があるような場所に育つとどうしてもなんか差別していないといらんなくなるんだろうね」と発言することも可能な訳だが、まあ、普通はしない。けど、それを気楽に口にする人もいる。結構いる。多い。なんなんだろうとよく思う。
 敢えて「名古屋よいとこ」と宣伝したりする気はない。しかし、敢えて「そうそう名古屋ってサイテーだよね」と話をあわせる必要もなかろうし、また不快感を抑える必要もあるまい。「オリエンタリズム」とか「朝鮮人差別」とかってこういう感覚が全般化したようなもんなんだろうな、と実感した感じだ。この感覚にずっとつきまとわれたら、「パッチギ」な戦闘意識は自然と根付くだろう。そういえば、「パッチギ」の舞台は、京都だった。
(いうまでもないことだが、「だから関西は・・・」とはつづかない)


☆「スタジオボイス」の大竹伸朗の特集を読んだ。ただただ「絵が描きたい、俺はすごい」と言ってるだけだった。表現主義をここまで愚直にやってる人っていないかも。然もしらふで。ただ、とっても格好悪く映った。「俺ってすごい、だから売れたい」と言い募っているだけ。Jポップス(死語)のアーティストたちのみなみなそう口走っていたから、たぶん飽きたんだと思う。田舎に籠るっていうのもフォーク系シンガーソングライターたちが好きなライフスタイルだし。あと、なにより図版であがっていた彼の「絵」に萎えた。「画家宣言」した頃の横尾忠則っぽかったからだ。僕が高校生の頃、こういう絵ってはやってたよなあ、あれってひょとっとして大竹伸朗だったのかなあ・・・と。
 大竹伸朗のことを格好良いと思った瞬間って、ムサ美の教授のことを格好悪いと言っていたのを読んだ瞬間だけだったのかも。ムサ美の教授がへろへろの格好してズボンのチャックが開いているのを見て「どうしようもなく格好悪い、と思った」と、発言していた。なるほど、と思った。ムサ美の教授にしてみれば、格好に気を使わないことが格好良かったんだと思う。それが通用しなくなったことがはっきりと表明された瞬間だったんだと思う。
 大竹伸朗が格好悪いと思えた瞬間って、「理屈じゃ無いんだ、おれすごいんだ」っていう理屈がどうしようもなくありふれてしまったことの証左なのかも。ニット帽とヒゲとジーンズというカジュアルを気取った格好つけが、これまた八十年代発業界人おじさんっぽくて格好悪いってのもあるけど。
(まとまらん)